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佐賀県及び嬉野市の忍者文化調査を継続しております。
現在メインに調査しているのが、忍者も使ったとされる「タイ捨流剣術」です。 佐賀県に残るタイ捨流の資料「タイ捨流解紐」が佐賀県立図書館に残っていました! (以下「肥前兵法タイ捨流」説明文) 肥後(熊本)の相良忍群が活用していた「兵法タイ捨流剣術」が、肥前(佐賀)に渡り「肥前兵法タイ捨流剣術」となった。 タイ捨流は、肥後人吉の丸目蔵人が創始した剣術の流派で、肥前には蔵人自ら訪れ、武雄の木島刑右衛門らに相伝しています。 鍋島藩の二代藩主鍋島光茂の御側頭を務めた中野就明は、その刑右衛門の孫弟子にあたり、これを宝永7年(1710年)に「タイ捨流解紐」を著した。当時、肥前における剣術の本流は、タイ捨流から新陰流に移っており、就明は「伝流ノ源ヲ失ン事ヲ憂ヒ」と、口伝の極意も含めてわかりやすい解説書としてまとめた。 その後、肥前タイ捨流は中級・軽輩の武士層において広まっていましたが、幕末になると葉隠を著した山本常朝や十代藩主鍋島直正が自らタイ捨流に入門している。 ------------------------------------------------------------------------ またその他の資料で「肥前武道物語」という書籍があり、これに詳しい内容が書かれていました。 丸目蔵人自ら肥前に渡り、武雄の木島刑右衛門にタイ捨流を相伝。その後には多久や白石などにも渡り、嬉野市では旧吉田村(現塩田町五町田)の八天神社に「八天タイ捨流」の巻物が残っているそうです。しかし状態が悪く、神主様にお願いしましたが、破損の恐れがあるため、現物の確認はできない状態でした。(神主曰く「八天タイ捨流」は間違いないとのこと) その他にも佐賀の山伏がタイ捨流の棒術を学んでいたなど、タイ捨流は山伏(忍者)・佐賀との関わりはかなり強いようです。 (タイ捨流解紐:佐賀県近世史料 第八編) (肥前武道物語) (肥前タイ捨流 木島刑右衛門)
by hizenyumekaidou
| 2014-06-12 23:12
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